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徳島県立近代美術館「没後120年 エミール・ガレ展」図録 ― 高島北海の墨絵がガレの「悲しみの花瓶」の生成に影響を及ぼした という仮説の誤謬と同展監修者による数々の不適切な引用について

2024年11月5日

山根郁信

松濤美術館で開催された「没後120年 エミール・ガレ展」が徳島県立近代美術館に巡回(2024年10月~12月)している。

本展においても監修者は、当該図録所収の「エミール・ガレ、象徴的芸術への道程」と題した解説文のなかで、「悲しみの花瓶」と命名された一連の黒いガラス作品が高島北海の墨絵の影響から生まれたという主張を頑なに繰り返している。

筆者(山根)は今年6月、このサイト内に挙げた記事「松濤美術館『没後120年 エミール・ガレ展』図録 ― 黒いガラスの生成に関する同展監修者の誤謬について」のなかで、「高島影響説」が明確な反証をもって否定し得ることを詳しく論じている。(URL: https://erte1920.com/topics/2024-06-05.html

本稿では新たな反証を交えて、高島の墨絵がガレの黒いガラス作品の生成に影響を及ぼしたという説が明らかに誤りであることをあらためて指摘しておきたい。加えて、同展監修者がこのふたつの図録のなかで幾度となく繰り返している不適切な引用改変についても今一度注意を喚起しておく。

高島邂逅以前にガレは「悲しみの花瓶」の素地を制作しているという事実関係について

本サイト内の先行記事では触れていないが、ガレの「悲しみの花瓶」のひとつに、フランスの研究者たちが制作年代を「1884年頃」と推定している作例がある。それは現在ナンシー派美術館に所蔵されている「夜La Nuit」と題された作品(画像)で、2004年発刊の同美術館所蔵作品図録(Emile Gallé et le verre: La collection du musée de l'école de Nancy, 2004, Somogy)に「1884年頃」の制作と記されている。この年代考証については同図録編纂者のヴァレリー・トマ氏による解説を本サイトに掲載しているので参照されたい。
(URL: https://erte1920.com/topics/2024-11-05-2.html

1884年頃の作とされるこの作品には小売店エスカリエ・ド・クリスタルがルネ・ロゼRené Rozet (1859-1939)に発注したブロンズ製の台座が嵌め込まれており、エスカリエ・ド・クリスタルの研究者であるアニクとディディエ・マッソー氏も、トマ氏と同様、その制作年を「1884年頃」としている。(典拠:Annick et Didier Masseau, L'Escalier de cristal. Le luxe à Paris 1809-1923, Éditions d'art Monelle Hayot, 2021, p.192.)

ディディエ・マッソー氏はトゥール大学歴史学教授で、アニク夫人は美術史家である。トマ氏もマッソー氏も信頼のおける学究であり、彼らの記述を読む限り、この作品は「1884年頃」の制作と考えて恐らく間違いない。この推定年代に依拠するなら、高島がナンシーに来たのは1885年4月であり、ガレと高島が出会ったのが1886年の可能性が高いことを踏まえると、ガレは高島邂逅以前に「悲しみの花瓶」の素地を制作していたことになる。“高島の墨絵”影響説はいっさいの根拠を失ってしまうのである。同監修者が両者の関連性をどう付会しようとも、ガレが高島の墨絵を見て「悲しみの花瓶」の素地を想いついたなどという仮説は成立し得ないということだ。

「悲しみの花瓶」の素地をガレ自身は「オニキス風」と呼んでいる

本サイト内の先行記事(14-16頁)で既に指摘している通り、同監修者が「玉滴石シリーズ」と誤って呼んでいる黒いガラス素地のことをガレ自身は「オニキス風」と呼んでいる。これも同様に同監修者が主張する高島の墨絵からの影響説を否定する決定的とも言える情報である。詳述は反復しないが、それは紛れもなく、ガレ本人は「悲しみの花瓶」の素地に半貴石を再現しようと試みていた事実を示している。(先行記事15頁参照。)

同監修者に拠れば「美術史学は形を読む学問であるから作品はどのように見えても自由だ」(徳島県立近代美術館図録、124頁、訂正シールを貼り付けた脚注部分)ということらしいので、同監修者が「悲しみの花瓶」の素地を高島北海の墨絵の再現と見るのも勿論自由である。ただ、少なくとも作り手側、つまりガレ本人はこの黒いガラス素地を「オニキス風」と呼んでおり、「墨絵」とは一言も言っていない。

申し添えておくと、美術史学とは「史資料の裏付けをもとに実証性をもって」形を読む学問であると筆者は考える。この方法論に立脚していなければ、美術史学はなんの根拠も説得力持たない虚構でしかなくなってしまう。「高島影響説」において同監修者の考察からすっかり抜け落ちているのはこの要件である。核心的な部分では常に「想像する」、「推察する」、「予想する」という言葉が繰り返され、思弁に終始した記述となっている。それはあくまで同監修者の空想に過ぎないのである。

画像典拠:『1889年の万博における装飾と産業芸術』 Roger Marx, La décoration et l'art industriel à l'Exposition universelle de 1889 : conférence faite au congrès de la Société centrale des architectes français dans la salle de l’hémicycle de l’École nationale des beaux-arts, le 17 juin 1890. ANCIENNE MAISON QUANTIN LIBRAIRIES-IMPRIMERIES RÉUNIES, Paris.

「玉滴石シリーズ」と同監修者が誤って認識している素地は中国の影響

同監修者のこの誤解も、本サイト内の先行記事で既に指摘している通りだが、要点を摘書きしておこう。

同監修者はこの黒いガラス素地をガレが「玉滴石」と呼んだと思い込んでいるが、これは原典(仏語原文)の訳語の取り違えから来る明らかな誤解である。フランス語の「ヤリトhyalite」には「(鉱物の)玉滴石」と「(19世紀ボヘミアで製造された類の)黒いガラスverre noir」の意味があるが、ガレは単に「黒いガラス」という意味でこの言葉を使っている。ただし、ボヘミアで製造された黒いガラスを限定して指しているわけではない。これは19世紀的な意味合いにおいても同様である。また、ガレがグラヴュール(同監修者の言う「ぼかし彫り」)を黒いガラスに施した素地を別してこう呼んでいるわけでもない。 さらに玉滴石は黒いガラスを制作する際に使用される鉱物ではなく、ガレがこの鉱物の色調や風合いをガラス素地上で再現しているわけでもない。

ガレが記した「hyalite」という語の正確な解釈について、筆者は元オルセー美術館フィリップ・ティエボー氏、およびフランソワ・ル・タコン氏二名のガレ研究の泰斗にも照会をしており、これが鉱物の「玉滴石」を意味しているのではない旨を確認している。(当該私信も手元にある。) ガレは断じて「ヤリトhyalite」という言葉を「玉滴石」の意で使ってはいない。

同監修者は、「おぼろげなグラデーションによって暗い雲間から明るい空をのぞむような透明部分は、細かいマルトレが入っていることも相まって玉滴石のイメージを連想させなくもない」(松濤美術館ガレ展図録、143頁、作品解説48番、下線筆者)などと、ガレの黒いガラス素地と鉱物の玉滴石を強引に結びつけようとしているが、「ぶどう状」に岩の表面に付着するオパールと、ガレの黒のガラス素地との間には勿論何の形象的類似性も認められない。さらに、ここで同監修者がイメージの類似性に言及しているのは、「悲しみの花瓶」の透明部分であり、問題となっている黒の素地部分ではない。比較の対象がここでは黒の部分から透明部分に変わっている。ガレは黒いガラスに関してのみ「ヤリトhyalite」という言葉を使っており、透明部分の素地の類似性をもって「ヤリト」と呼んでいる訳ではないのは明らかだ。監修者の「ヤリト=玉滴石」という思い込みがさらなる誤謬、というより牽強付会を惹き起こしている。

いずれにせよ、ガレが鉱物の「玉滴石」を指して「ヤリトhyalite」と呼んでいるのではないことはガレがこの素地を「オニキス風」と呼んでいる事実が明快に証している。

墨絵を想起させる1884年制作の黒いガラス

この件に関しても先行記事(2-6頁)に詳述があるので参照されたい。

同監修者は、墨絵を想起させる素地と筆者(山根)が指摘している1884年の花瓶について、「黒のぼかしを活用するのが水墨画であると定義するならば、画面の一部を真っ黒に塗り潰す所作は、黒を使ってはいるものの高島が描いたような水墨画とは別種と考えられる。」と反論を試みている。(徳島県立近代美術館図録、124頁、訂正シールを貼り付けた脚注部分。下線筆者) しかし、このガラス素地は、決して「画面の一部を真っ黒に塗り潰す所作」にはなっていない。水墨画特有の「黒のぼかし」が巧みに封入されていることが本頁に複製した画像からもはっきりと確認できる。同監修者がこれを「画面の一部を真っ黒に塗り潰した所作」と見るのも勿論自由である。失笑を禁じ得ないのは、同監修者が「1884年制作の作品で夜空に輝く三日月の周囲を黒く染めたガラスがあり、黒の使用が墨絵のように見えるのだ」(徳島県立近代美術館図録、124頁、訂正シールを貼り付けた脚注部分)と、この黒の使い方が「墨絵」(水墨画を含む上位概念)に見えることを計らずも自身が認めてしまっていることだ。水墨画を知る万人の目に、このガラス素地は黒のぼかしを活用した墨絵、まさしく「高島の描いたような水墨画」に見えるのではないだろうか。

同監修者の目には左ふたつの素地は「画面の一部を真っ黒に塗り潰す所作」に見えているようで、「黒を使ってはいるものの高島が描いたような水墨画とは別種」だと主張している。右ふたつにあるような被せガラスの素地に限って高島の水墨画と同種だというのが同監修者の見立てである。

ガレが高島の席画を実見したという記述は遺されていない

本件も先行記事(12-13頁)に詳述しているが、同監修者はガレが高島の席画を眼前で実見したという前提で推論を組み立てている。しかし、それを証す史資料はこれまでいっさい確認されておらず、ガレ自身、高島の席画については言葉を遺していないことをあらためて指摘しておきたい。様々な記事のなかで、自身の作品への日本や中国やペルシャの影響を躊躇なく披瀝しているガレが、高島の席画に関しては何も書き遺していない事実も、それがガレに何ら特別な印象を残さなかったことの傍証のひとつと言える。

同時代人たちの証言

ガレと関わりの深かったモンテスキウ、フルコー、メモロンらの同時代人はこぞって、ガレの創作が中国の工芸品を手本にしていることを指摘している。彼らの言説については先行記事で詳しく紹介しているので是非一読されたい。

上述の通り、「高島影響説」にはあまりに多くの反証が存在している。高島の墨絵がガレの黒いガラスの生成に影響を与えたという仮説が成立しえないことは決定的と言える。

中国の乾隆ガラスの影響に触れた解説文で同監修者が繰り返している不正な引用改変行為

筆者(山根)は、ガレの黒いガラス作品には中国の乾隆ガラスが影響していると考えている。その根拠は先行記事のなかで具体的な作例を複製して詳しく論じているので反復しないが、ここではガレ自身が所蔵していた中国鼻煙壺のひとつにガレが間違いなく参考にしたと考えられる好個の例(以下図版)が遺されている事実を振り返っておこう。

さて、同監修者は、「高島影響説」の有力な反証となるこの見解(鼻煙壺影響説)に対して、ふたつの図録(松濤美術館、徳島県近代美術館)のなかで反論を試みているが、それは引用の意図的なすり替えや改変といった不当な方法によるもので、学問的な作法に則った正当な反論ではない。大学などの研究機関に出されたものであれば間違いなく不正行為に認定される。本件は乾隆ガラスの影響を見定めるうえで極めて重要であり、ここにあらためて同監修者が犯している改変内容を指摘しておく。

同監修者は当該図録にこう記している。
「ドイツの美術史家ヘルムート・リケは、この時ガレが検分した350点ほどの工芸品について「予期せぬことが彼を待ち構えていたわけではなかった。オリジナルの作品との邂逅は、ガレにとっては期待外れであったろう」と指摘し、ガレにとっては既知の情報の確認の意味合いが強かったと推察している。」 (以下青字同監修者)[典拠:展覧会図録『没後120年 エミール・ガレ展』所収「エミール・ガレ、象徴的芸術への道程」、122頁、註18]。

ところが、同監修者が引用したリケの当該記述は原典では以下のよう書かれている。

「ベルリンで収集された作品の多種多様なフォルムは、彼にとってもっとも重要なものであったわけではないであろう。それらのかたちはすでに陶磁器から知っていたので、予期せぬことが彼を待ち構えていたわけではなかった。」[典拠:『アール・ヌーヴォーのガラス デュッセルドルフ美術館 ゲルダ・ケプフ・コレクション』(北海道立近代美術館、2015年、18-31頁)所収、ヘルムート・リケ「アール・ヌーヴォーのガラス 起源―源泉―展開」(21頁)]

同監修者はガレが検分した350点ほどの工芸品について「予期せぬことが彼を待ち構えていたわけではなかった」と述べているが、リケの原典では、ベルリンでみた作品の多種多様なフォルムについては、「それらのかたちはすでに陶磁器からしっていたので、予期せぬことが彼を待ち構えていたわけではなかった」と記されている。

これは紛れもなく同監修者のすり替えである。リケは、ガレがベルリンでみた中国工芸品のフォルムはガレにとっては既知のものであったという趣旨のこと書いているにもかかわらず、同監修者は、350点ほどの(中国)工芸品は既知のものであった、とその対象を自説に都合よく置きかえている。それはガレがベルリンでみた中国工芸品から受けた影響を過小に印象付けるための改変である。

さらにこの記述にはもうひとつ同監修者のすり替えがある。それは「オリジナル作品」が意味するものの置き換えである。同監修者の引用では、350点ほどの工芸品について「予期期せぬことが彼を待ち構えていたわけではなかった。オリジナルの作品との邂逅は、ガレにとっては期待外れであったろう」と記されているので、文脈に沿って解釈すれば、「オリジナルの作品」とは「350点ほどの工芸品」の「オリジナルの作品(現物)」を指す。しかし、リケの原典では、この「オリジナルの作品」の意味するものは、「350点ほどの工芸品」ではなく、ガレが目にした『美術工芸誌』(後述)に掲載されていたイラスト(2つの中国ガラスの図版)の「オリジナルの作品」(現物)のことである。原典と照合すればそれは明らかであり、リケの当該邦訳原文とイラストを以下に転載する。

「その記事[『美術工芸誌』のこと]が公表されるやいなや、 ガレは作品を研究するためにベルリンに向け出発したと思われる。ベルリンで収集された作品の多種多様なフォルムは、彼にとってもっとも重要なものであったわけではないであろう。それらのかたちはすでに陶磁器から知っていたので、予期せぬことが彼を待ち構えていたわけではなかった。ガレを魅了したのは二つの器の挿絵で、それは後に彼が制作することになるアール・ヌーヴォーの作品を予見させ、1880年代の中頃から抱いていた疑問に対する解答を見出すことができる可能性をもっていた。特に植物と飛ぶチョウが表現された細長い花器は、一見すると繊細に彫刻された1890年代のガレ工房の作品と見まごうものである。首部の装飾と植物の間の二重の螺旋は疑いようもなく東アジアのものである。オリジナルの作品との邂逅は、アーティストには期待はずれであったであろう。幸いなことに、パプストが掲載した花器の一つが現存している (figs. 8,9)。それは挿絵から期待されるものとは完全に合致しない。直接比較すると、明るい地肌と暗色の装飾との際立ったコントラストは、オリジナルの作品の外観を何か乾燥しているように見せ、感覚的な表現力を乏しくさせている。それにもかかわらず、木の台 座で補強されたその花器は、その特徴により1890年代後半からのガレの作品のプロトタイプとなったと思われる。」(下線は筆者)[典拠:前掲書所収、ヘルムート・リケ「アール・ヌーヴォーのガラス 起源―源泉―展開」(21‐22頁)]

加えて、同監修者は「ガレが検分した350点ほどの工芸品について」、「(・・・) ガレにとっては既知の情報の確認の意味合いが強かったと[リケが]推察している」と書いているが、これもリケの原典の趣旨とはまったく相反する内容に改変されている

リケは「1885年に彼[ガレ]がベルリンで行った研究は、1890年代の連作、特に1900年からの工場生産のガラスに紛れもない影響をおよぼした。」 [典拠:前掲書所収、ヘルムート・リケ「アール・ヌーヴォーのガラス 起源―源泉―展開」(22頁)]と、ベルリンで検分した中国の工芸品が間違いなくガレに影響を及ぼした旨を指摘しており、350点ほどの中国工芸品自体がガレにとって「既知の情報の確認の意味合いが強かった」とは決して述べていない。同監修者はリケのこの指摘もまったく相反する内容に歪曲している。

さらにまた同監修者は、乾隆ガラスがガレの作品に及ぼした影響範囲の考察においても、以下の通りリケの指摘を自説に都合の良い内容に大きく改変して引用している。

同監修者の引用:
「メリハリの強い角張った乾隆ガラスの浮彫は、ガレには印象的な色彩ほどの感銘を与えず、1900年頃からのエッチングをつかった量産品のくっきりした輪郭をもつ装飾にまぎれもない影響を及ぼしたとリケは指摘している。」
 [典拠:前掲図録所収「エミール・ガレ、象徴的芸術への道程」(122頁、註18)]

リケの原典:
「(・・・)したがって、それら[厚みのある中国の花器]の硬い、角ばった輪郭は、ガレにはその印象的な色彩ほどの感銘は与えなかった。それらは技術者としてのガレに、被せガラスの可能性を促したと思われる。1880年代後半の工房での作品に中国のガラスのモデルの影響はあまりみられなかったが、1885年に彼がベルリンで行った研究は、1890年代の連作、特に1900年からの工場生産のガラスに紛れもない影響をおよぼした。」
[典拠:前掲書所収、ヘルムート・リケ「アール・ヌーヴォーのガラス 起源―源泉―展開」(22頁)]

上記の通り、リケの原典には、「エッチングをつかった量産品のくっきりした輪郭をもつ装飾」という語句はどこにもなく、同監修者が付け加えたものだ。そしてリケの1890年代の連作」という語句を切り取っている。乾隆ガラスがガレに与えた影響は「1900年頃からのエッチングを使った量産品のくっきりした輪郭をもつ装飾」の被せガラスに限定的であったとリケが指摘しているかに装うため、同監修者は原典にない言葉を付け足し、「1890年代の連作」という語句を切り取ったと考えられる。同時に「1890年代の連作」(手彫りのグラヴュール作品を含む)も乾隆ガラスの影響下にあるという、自説に不都合な指摘内容を覆い隠すためでもあるだろう。しかし、リケは、乾隆ガラスが「1890年代の一連の作品、特に1900年からの工場生産のガラス」に影響を及ぼしたと書いており、「1900年からの工場生産のガラス」だけを限定していない。(「エッチング」という言葉自体も原典にはない。) 先行する一文に「被せガラスの可能性を促したと思われる」とあるように、リケは単に乾隆ガラスがガレの被せガラス(「エッチング」を特定していない)の生成に影響した可能性を示唆しているだけである。さらに、同監修者はこの「被せガラスの可能性を促したと思われる」という核心的な指摘をも切り取っている。同監修者が高島の墨絵の影響から生まれたと主張する「玉滴石シリーズ」(一連の黒いガラス作品「悲しみの花瓶」の誤称)はまぎれもなく被せガラスであり、その被せガラス自体が乾隆ガラスの影響から生まれた可能性を指摘するこの一文は、高島影響説にとって極めて不都合な内容である。同監修者が意図してこれを切り取ったのは明らかだ。

上述の通り、同監修者は引用にみせかけた部分抜粋によって、リケの言説をまったく別の内容に歪曲・改竄している。原典と照らし合わせれば直ちに露呈するような稚拙で不当なすり替えや改変を同監修者が幾度となく繰り返しているのは、反証を歪曲する以外に自説を正当化する術を持たず、正当な論拠で反論できないことの証左にほかならない。自説の誤りを被覆するための印象操作にのみ腐心し、およそ学問的とは言えない不当な論拠でしか反論できないこと自体が、高島影響説の限界を物語るものであり、その信憑性を益々貶める結果となっている。図録などの出版物は後世の研究者たちの目に触れる。検証が行われれば直ちに事実関係が露見し、研究者としての資質ばかりでなく良心をも問われることになろう。このような引用の改竄行為は研究者としての倫理的規範を完全に逸脱してしまっていることを自覚すべきである。

(やまねいくのぶ)

補遺

本年10月に刊行された『エミール・ガレ作品集』(東京美術)においても、同監修者はこれまで同様、数多くの誤りを繰り返している。

この新著では先のガレ展図録(松濤美術館・徳島県近代美術館)のなかで引用の改竄を交えて展開していた「高島影響説」の牽強付会な主張こそすっかり鳴りを潜めてはいるものの、依然、両者の「関連を予想させる」と自説に固執し続けている。そして、「ガレ本人はその[黒いガラスの]発想源について言葉を残していない」などと記しており、ガレ自身が「悲しみの花瓶」の素地を「オニキス風」と呼んで、その着想源を明らかにしている事実を被覆している。ガレが「言葉を残していない」のは「高島の席画について」であって、「着想源について」は上記の通り明確な言葉を残している。

「イスラム風ランプ」と呼ぶとき、そのランプの着想がイスラムに由来することを意味し、「日本風花瓶」と呼ぶとき、その花瓶が日本から発想されたことを表す。ガレ本人が「オニキス風」と呼んでいるのであれば、それは紛れもなく、その素地がオニキスに想を得たとガレ自身が言葉を残しているということである。

また、当該著者は依然として「ヤリト」を「玉滴石」と誤解したままだ。甚だ深刻な確証バイアス[自分がすでに持っている先入観や仮説を肯定するため、自分にとって都合のよい情報ばかりを集める傾向のこと]に陥っているのだろう。作品解説にも明らかな事実誤認が随所に見受けられ、ここでも著者一流の「自由な」読み方が、しかし、史資料に照らし合わせれば明らかに誤った解釈が、闊達に展開されている。これらについても近く拙著のなかで指摘していこうと考えている。

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